だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

二つの焦点

5月も半ばを過ぎて、21歳の誕生日を迎えようとしている今、数ヶ月前から相変わらず実家の柔らかく少し猫の引っ掻き跡がついたソファに沈んで、この文章を打っている。

第1稿の部分的なリライトや推敲が4/20にひとまず終わったものの、自分の中の不完全燃焼な感を拭いきれず、かといって何をどうするという方策がまるで立たないまま、中途半端に二作品目の構想を立てたり、文章のスピード感を増加させる目論見で後先なく携帯に打ち直してみたりするなど、迷走を繰り返してこのひと月を過ごしてきた。

ネットで知り合ったある人に、恥をしのんで小説を読んでもらった。何かが変わるだろう、それが悪い方向へかいい方向へかはともかくとして、少なくとも現状に変化を及ぼすことはできるだろうと思って。その人は、全体として僕の書いたものにみずみずしい感動を表明してくれたし、文学が好きで自分も何度か挑戦したが筆を折ったという立場から、最大限の賛辞を送ってくれた。しかし僕自身の中の不安げな気性が満足せず、詳しく問いただし突き詰めていくと、「”いい意味で“童貞くさい、それが愛おしいし、今のあなたの年代でしか書けないだろうと思う」「二重生活の孤独、宙ぶらりんの身分というテーマは『ブルー』にも勝る、それは私たちと地続きで逼迫したものであり、それゆえ『ブルー』より陰鬱として泥臭い印象を備えるかもしれないが、等身大の私たちに響きうる」「文章は“無個性”」「目を見張るディテールがあり、それらは改稿の際も是非削除しないでほしい」などという、鋭い刃のような言葉を貰った。白状すれば、僕は彼女の言葉からある程度の自信と、模索の可能性を与えられたし、同時に傷つけられた。すでに明らかだろうが、僕のような人間にとって「無個性」という評価は最も忌まわしい。それが今作でこだわってきたカメラアイの文体(主人公の自我を極力登場させず、外界の動きとそれによる五感の感応だけを記述して、作品を映像的・感覚的に仕立て上げようとするもの)に関するものだったから、虚脱感はことさら強く、数日経った今でもくよくよ悩んでいる。

ただ、書く前も書いている最中もそして書き終えた後も、常に感じていたのはその理想とするカメラアイ文体と僕が製作を迫られた人生経験の素材の、恐ろしいほどのミスマッチなのだった。

ここでは説明(というか個人的な考えの表明)を省くが、カメラアイ文体とは「3人称的1人称」と言えるはずで、神の視点から外界を平等に描写しながらも1人称の人間味、あたたかさ、認知の歪み、のようなものを喪失しないで済む手法だと考えている。代わりに主人公による告白の機会は大きく制限され、主人公の側から能動的に起こすアクションというものに適合しない。まあ『ブルー』的と言ったらそれまでなのだが、この文体のもつ静けさと少しの暖かさというのは、主人公が神のようにじっとして変化しないでいられる作品にのみ許されるのだと思う。だから村上龍は二作目の『海の向こうで〜』においては海のこちら側(僕とフィニーがただくつろいでいるほう)では一人称を使うし、あちら側(たくさんの人が主体的に動き、他人と会い、何かしらを考えて、抱えている背景の説明=人物の思弁、も必要な方)では3人称が使われている、これは彼の文体の特徴を端的に示しているのだと思うし、彼自身恐らく人称を色々試してみて「あちら側」で既成の文体を用いることの難しさを痛感したのではないだろうか。(コインロッカーベイビーズでは人称を色々試した末に、3人称かつ嬰児の母がロッカーに赤子を捨てる場面から書き始めることでようやく物語が辷りだしたらしい)

そして、僕の小説はやはり「あちら側」の1エピソードと次元を同じくする、主体的な動きと変化、それを説明する思弁が必要とされる物語だった。 主人公がじっとして神のように辺りを見ていたら、多分狭いアパートの一室をほとんど出ることなく、出たとして大学の図書館へ行くか定食屋で飯を食うかするだけで、気づいたら二次試験を迎えてしまう、そういう話なのだ。それを無理やり『ブルー』の文体で書いていこうとしたから矛盾が生じた。矛盾を隠すには(相対的には)不必要な記述で紙面を埋め尽くすしかなかった。僕が書いても書いても憂鬱でいたのは、頭のどこかで最初からそのことに気づいていたからなのだろう。

と、ここまで文体に関する致命的な問題を話したところで、僕に残された道はシンプルに2つだと思う。

①ブルーの文体で押し通す(もしかしたら現作品はこれで終わりにして次へ進むか)

②より素材に適した文体を探し、一からリライトする

 

正直、①を追求していくのはもはや不毛だろうと感じる。①を追求するということは1/28から絶えず行ってきたことだし、それで書いている間、僕は正直辛かった。“無個性”という評価の話に一瞬戻るが、僕はこの文体を選択し外界を娼婦みたいに次から次へと絡め取って、いわば無責任な描写を量産していったせいでそう見えたのでは無いかと考えている(そうであってほしい) 書いていて込み上げてくるものがあったときにも「これが表現ということなんだ」と食いしばってサラリと受け流したりした。彼女が「主人公はとてもとても善人に感じる、コミュニケーションに難を抱えて現実に関わろうとしない、でもすごく優しくて仮に話の途中で誰かを殺してやりたいとか思ったとしても、きっとそうしないだろうな、と私に思わせるくらい」という感想は決して偶然では無いと思う。その点で自分を抑えに抑えたあの文体が一応の功を成したとも言えるし、バイオレンスが無ければあの文体はひたすら甘いだけの童貞くさいヤワな文体だということも(つまり僕の文体選択が甘かったということが)明らかになったはずだ。

すべての根は、いま、一つに繋がっているという風に僕には感じられる。まあ、文体を変えるということはそれだけラディカルことなので、「根」も「根」、うまいことを言ったというつもりは全くないけれど。僕は僕の体験をこういう形で終わらせたくないし、この作品に心から別れを告げないことには先へ進める気がしないので、たぶん②の道を行くのだろうと思います。5ヶ月を切ったということで焦る気持ちもありますが、これまで積み重ねてきたディテールやイメージはリライト後に転用できるはずなので、何かを書くことになったとて初稿ほどの時間と労力は要さないだろうと思ってます。

 

それからテーマについての問題。正直言って、僕は自分の体験の独自性に酔っている部分があって、1-1.5稿では、もちろん抑えたつもりだけども、話の終わり方で決定的にそういう自意識が漏れ出てしまっていた。「結末はちょっと甘すぎるかな、スイートすぎるかなって思う。主人公はきっと救われるべきだけど、それは麻里奈の、それも彼女の持つ弱い部分によってではない、麻里奈に救われるんだとしても彼女の人生を楽しくする性格によってであるべきだし、私個人の思いとしては、主人公にはネットの居場所ではなく現実を見据え直して、自分の力で立ち上がって欲しい」

たった数日前に、退屈に任せてかけてみた電話で彼女と繋がったことは不思議なほど僥倖に感じられるのだが、その鋭い指摘にひそむ力のおかげで、体験に脚を取られていた僕の思考の動きも自由になった気がする。ネットで知り合った人びとに対する思いの本質を突き詰めていくと、ボタン一つで自由に関係を切ることも継続することもできるという不安定さと刹那性はいつも背後に感じているものであって、あの頃麻里奈のモデルと勉強していた頃も、突然彼女がいなくなるのではないか、受験が終わったら自分は捨てられるのではないか、そういう恐怖は間違いなくあって、顔を合わせた後でさえ、地に脚をつけていない僕らの関係に対する一抹の不安はぬぐいきれず、現実を生き抜いた僕自身は、やはり麻里奈によってではなく自分の向日性やプライド、時間の経過などによって3/10から立ち上がったというのが正しいのだと、思った。僕は、その事実を、書く前に何度か考えたこともあったが、麻里奈との蜜月を描きたくて無視してしまった。彼女は僕の自惚れや逃避傾向を厳しく読み取って伝えてくれた。だから僕は、第2稿を書くにあたり、最終的に麻里奈とは訣別するというプロットを確定させました。そうなるとまたしちめんどくさい調整が必要になってきて、キリがないなあ...ということにもなってしまうのですが、「私たちと地続きの孤独」という言い方は舞い上がるほど嬉しかったし、あの身悶えするような宙ぶらりんの寂しさを抱いている人たちに少しでも救済の片鱗を覗かせられるよう、努力します。