だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

小説についての近況

できたこと

・セリフで誤魔化し過ぎていたいくつかの場面に動作や詳細な細部を加え、「力が入ってる部分とそうでない部分の差」を減らすことができた、また、そうした改稿の理想的な進め方を体感することができた

・足りなかった前半部の現実的な不幸を加えるメドが立ち、着手して、ある程度進んだ

・不自由な表現、リズムが悪い部分の改善が進んだ

 

したいがやれてないこと

・明確な本筋が存在しない状態を脱すること←!

・キャラクターに差異を与えること

 

総括すると、推敲というものが思った以上に大変な作業であると、ひりひり感じさせられました。平野啓一郎が、「デザインとエンジニアリングを一人二役で行う結果生じる矛盾に、衝突するのが推敲段階だ」といっていますが、正しくそうだと思います。デザインというのはおそらく、こういう造形のキャラ、こういう展開、こういう感情、こういうセリフ、などがあったらいいなあという、美的感覚から始まる、創作の作業でしょう。得てして作りたてのものというのは不完全で、角が立ち過ぎて、いくつもの要素を連携させて作っていく小説という媒体では、それぞれのパーツがうまく調和して機能するよう角を削らなければいけません。場合によっては、このパーツはどうも嵌らないなということになれば、泣く泣く削除という帰結すらあるでしょう。この、「あるパーツによって自分の一番伝えたいことが伝わるかどうか、その役に立つかどうか」を精査するのがエンジニアリングだとすれば、推敲がちょうどデザインしたものをエンジニアリングする段階に当たるのだと思います。

そして、僕はその矛盾にドップリ足を取られているわけです...。

 

さて、この閉塞感、うまくいかなくてどうも辛い気分が、何によってもたらされるのかと言うと、たぶん小説に明確な流れが存在してないことなのだと思います。流れが存在せず、場面たちがそれぞれ自分のやりたいことを主張して意図が拡散してしまっている。なので場面を加えるとか文章を修正するとかいった小手先の修正を加えても、主人公が1行目からその場面までで何かを経ているという感覚が持ちにくく、読んでいて作品に没入することができないため、推敲中何度も読み返すわけですが、「ああ、こりゃちょっと...」となってしまう。

しかし、なにも僕が場面1で「カレーが好き」と言わせているのに場面6で「カレーは嫌い」と言わせているような、致命的な意味での拡散をさせてしまってるわけではありません。もっと言えば、ある場面でカレーを求めながら、別な場面でハヤシライスを求めてしまっているわけでもないです。構成メモを立ててなかったらあり得たかもしれないですが、1週間引きこもってメモを立てていたので、それほど酷いわけではないんです。この例に則って厳密に言おうとするなら、ある場面で「切っただけの生にんじん」「洗っただけのじゃがいも」「稲」が好きだと言っておいて、最後の方で急に「カレー」へ飛んでいくというような、強引な“飛び‘がある感じです。まあ書いてた頃の僕には「星型に切った人参」「食べやすい一口大のじゃがいも」「炊きたての新米」というつもりで書いてたんですが(そう思ってなきゃやってられない)、全体に当てはめてみるとどうも生に近かった、もっと洗練させられたなあ、という感じです。

また、あんまり例を引きずりすぎると良くないですけど、例えば僕がにんじんと玉ねぎとじゃがいもと豚肉の入った中辛のカレーを理想にしてるとしましょう。今ある第1.5稿には、どうもにんじんとじゃがいもと玉ねぎの一部を調理する過程だけ見せ(まあ皮剥くとかどんな切り方するとか)、肉には全く触れず、クライマックスになって手品のようにボン‼️と理想的なカレーを持ってきています。調理の行程のうち、最後の方は、流し気味に「はいやっといてー」という感じで進んでしまっているんです。

そろそろ分かりにくいですね、すみません。

とにかく僕は、なんとかカレーらしきものを作ろうとして、用意した場面のどれにもそこへ近づこうという傾向を与えられている。けれどカレーを完成させるためにはどの食材も調理が足りていない。結果それぞれの食材の取り扱いを個別に見ていくと(読者が場面を一つ一つ読み進めていくことを指しています)、いまいち何を作ろうとしているのか判然とせず、判然としないまま終わりに近づいて急にカレーが提示される、そういう状態に僕の作品はなっています。(伝わってほしい...!)

 

それで、自分を奮い立たせるためにも言いたいのは、今自分が用意している場面の中に推敲のヒントがあるということです。既にそこにある傾向、というものを大切にして、より洗練させる方に頭を使っていこうと思っています。時にはお蔵入りにするアイデアや場面もあるとは思いますが、第1稿を書いている間頭の中にあった理想形、完全なる調和に肉薄するにはどんな要素が「足りていないのか」を考えていきたいです。それは0からの創造とは確実に異なる作業であり、完成させるためにはそれが必要なのだと思います。

 

さっきシャワーを浴びている時に、実を言うと、自分はこういうのを書きたかったんだなあというものが一つ見つかりました。それは簡単に言ってしまえば「あなたがいないこの世界の生きづらさ」というものです。僕が現実的な不幸を求め(現実的な不幸があるからには非現実≒精神的な不幸が存在する。それは沢山散りばめました)、最終的に主人公に自殺まで試みさせるのは、消費されるセックスの問題や都市生活の孤独、資本主義社会における画一化された人生、などという要素を一手に引き受け衰弱した主人公が、生きるよすがとして、崇めるほどにまで肥大した感情の対象である現実世界の女性から、あっさり拒絶されることで、自我の行き場を失い死を選ぶという流れを書きたいからなのでした。流れが見えました。 けれどこの流れを適用するにあたり、①手放したくない一人の女性の設定や扱いを変えなければならず不本意であること、②僕自身が上記3つの問題について解決の糸口を掴めていないのに、作品を完成させることが出来るのか?という不安

があります。力の入れどころ、なのだと思います。

 

道は長いです。あるいは全体の30-40%ほどを変えなければならないかもしれません。ここ数ヶ月ひたすらこの作品だけに力を注いできて、正直疲れてしまいました。時間があるので進捗は生めますが、これから先どのくらい直していけばいいのか全く未知数で、心細い。何かを作るのは元来好きだし、作文とお絵かきは特に好きでしたが、気持ちをバーーーッとぶつけられるから楽しいのであって、推敲のように理想と現実の狭間で苦しみながらパズルをはめるように別な場面との兼ね合いを考えつつ文章を変えていくのは辛いです。その分いい文章が出来ると嬉しくて、何かあるたびにそこを見返してしまったりするんですが、今は作るという作業に疲れてしまいました。