だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

第一稿について

9月末に処女作の第一稿が完成して以来、11月と12月に110枚程度の中編が完成(と呼べないのが記事のテーマ)したんですが、とてもとても人に読ませられる代物ではなくて、書き直しと推敲を重ねて今年の5、9、10月くらいの文学賞に出せればいいと思ってます。

人様から色々値踏みされるときはとりあえず「300枚」と言っておけば迫力を持たせられるかなと思ってそうしてますが、親なんかと話すときは何枚書いてようが構想立ててようが実績ない若者の位置に立たなきゃいけないので割に辛い。

 

尊敬する村上龍さんが「限りなく透明に近いブルー」を「1週間で完成させた」とどこかで話していたから真に受けて、アタマから一度に書いてこのクオリティなんて俺には到底無理だなと自分の凡庸さに絶望してましたが、3月から数えて8ヶ月くらい経った頃調べてみたら少なくとも5稿は書き直していたらしいことが発覚し「おのれは」といきりたちましたが同時に嬉しかった。あんなレベルで書き下していくのは人間には出来ないでしょう。(三島由紀夫はその定義でいくと人間ではない、ということになってしまうのが恐ろしい)

 

嬉しいというのはすごい作品を書き上げた人でも第一稿は満足できる質では無かったということだし、失敗を恐れずとにかく書いていけと励まされた気がしたのです。

 

気持ち的に、やはり昨年一年間の仮面生活について書かなければいけない、逆にそれを達成すれば色々と丸く収まってくれんじゃないかって思ってます。あとは、叙情叙情叙情と読者置いてけぼりの台詞回し、場面趣旨・展開になるのを抑えて、あくまで他人の時間を奪うのだという現実を肝に銘じなきゃなー。「限りなく」が読んでいて巧妙なのは、人物の言動や生育背景に丁寧な差別化が図られていて、場面の順番も効果的に配置され(問題を孕んだ日常生活→問題の顕在化→生活の崩壊)、エンターテイメントとして十分成立しているからだと思うのです。地の文の生成とお話つくりは次元の違う作業だと思っていて、言葉やイメージを伴わない理系的処理が脳内で円滑に進まない僕としては非常にやりづらいですが、1)配置する意図を明確化できる2)自然な流れ3)作品全体のリズムと適合している

という3点を満たせるよう努力はしてます。私的メモでちょっと伝わらないかも。

まあ遅々として進みませんし、3)なんて一旦作り終えなきゃ分からないわけで、なんか早く進み過ぎた、飛ばし過ぎた、とかそういう不具合は当面無いものと見て進めていかなければいけないのが精神的にきつい。自分がある悪手を選択した結果それを前提としたシナリオが生まれたとして、もしその時点でより良い選択肢が用意出来ていたら違った優れた話が生まれていたのに、と考えて憂鬱になる。それが前からの抑制(後との接続がうまくいくか?)だとして、後ろからの衝動(こういうことがあったんだから“いずれは”こう帰結するだろ!)とのせめぎ合いに悩まされます。“いずれは”というところに、やれ自暴自棄で高田馬場ロータリーの写真を撮りまくるだとか、齋藤さんで女の子と夜通し通話するとか、苦手な酒を飲んでふて寝するとか、“やりよう次第”で詩情を巡らせることのできる場面を挟んで俗に言う葛藤的な停滞を用意するもんだと思いますが、なんていうんでしょうね、一つ一つの選択肢に可能性を感じてしまい取捨選択が出来ないと言いますか。

 

ともあれそんな苦痛もどこかで楽しんでいます。夢だけが莫大です。でも自分は到底才能が足りないというひりひりした予感も無いでは無い。頭のいい人が書く文章のリズムや要約のうまさに敏感すぎて、急に疑心暗鬼になって自分の文章とその人のを音読したり書いたりして比べてしまう。人一倍選民意識が強くて、その反動たる劣等感も強いのです。。。

 

2019年は予想はしてましたが灰色でした。自分で灰色と言えるだけ幸せだと思っています。絶対合格すると思ってた18年末の一年後、一昨日くらい、いくつかある分岐のうち最悪に近いものを辿っていることに改めてため息をつきましたが、一年という長いから短いかよく分からない時間のダイナミズムは幸せの方向にもきっと働くと思ってます。目の前の困難を一つずつ片付ける以外やれることは無いですが、焦らず怠け過ぎず頑張って行きたいと思います。100枚単位の執筆にもようやく慣れてきましたしね、前進はしているはずです。