だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

なんだかなあ

物憂い、という表現も合っている。アンニュイ。倦怠。そういう影もちらついている。直接的な原因などは無いと思うのです。構造的にこんな気分を抱くよう自分は出来ていると言ってしまうのが簡単だし正しそう。人嫌いなのに寂しがりで、人を笑わせたいけれど悩める人間でありたい。理想を追い求めがちなのに、リスクを取るのは避けたいと思う。別人格を持っているわけではなくてはっきりと自分という人間があるように平生感じられているけれど、気分の上下が激しく価値判断が時々に応じて変化してしまうのもまた事実です。そういう激動を第三者的にみて、こいつは一人で苦しんで何が楽しいんだろうと冷静に突っ込みながらもそんな悪癖を免れられないことを知っている自分が、静かな部屋にいると水が染み込んでくるようにじわじわの脳漿を犯して占領していくのです。そしてまた動かない天井をじーっと見つめて急にヒートパトスで四角く天井をくぎりバコッと外した中性的な少年が僕を見つけてにんまり笑い、「急げ、ほら」と手を差し伸べる想像をしたりする。しかし脈動は打たれ刻々死に近づいていること。今日食べたものがまた僕の血圧を上げること。ツイッターを見ているうちに視力が衰え、緑内障白内障がひたひたと近づいてくること。7月に入り、2019年も終わっていくこと。なぜ人は生きているのか?崇高な答えなどいらない。明日を生きる理由が欲しい。卑近であたたかな答えが欲しい。自殺したいわけではないけど、この先生きても何も得られない予感がある。何かあると思って過ごし続けた2018年は、東京の片隅で体育すわりをしていた僕は、きらきら輝く黄金の生命力を、2度と戻らない貴重なものを、虚空へ放り投げるだけで終わってしまった。人に囲まれてきた自分が、世界においてこれほどまで片っ端の役さえもらえず生殺しに一人でのうのうと生きていくとはまさしく想像を絶する恐ろしい現実だった。自分が何かしなければ、何も起こらないで時間だけが過ぎて行く、音楽の歌詞のように聞こえるがこれは真理です。恐ろしいところに生まれたものだな、全く。