だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

推敲してます。10/15締め切りです。また一歩良くなると思う。明日(今日)、たぶん終結部を書きます。まだ漠然としか浮かんでないけど、きっといいものが作れると思う。過去の自分、この作品を構想し一つ一つ積み上げてきた自分に、恥じないような文章を書きたい、そういう気持ちがかなり強い。執筆のみに留まらないが、永く暗い時間が続いたと思う。よく耐え抜いたと、自分ながら思う。一踏ん張りします。

酔いに任せた、飛沫のような思いつきではあったが、隣で君が放つ音程に耳を澄ませ、それに合わせて自分の声量を調節しながら、僕たちがこれまで辿ってきた道すじと、いま直面している巨大で漠然とした問題について、改めて何事かを悟る思いだった。小さな車内で感じたささやかな幸福感、それを僕は間違いのない真実として大切にしたいと思った。他にどんな物事が存在して僕たちを邪魔してくるとしても。よく似ている僕たちが交わることになった運命に力を見出したい。この期間君が珍しく、少しだけ吐露した言葉は僕のそれとほとんど同じだ。僕は人生の一つの限界の壁にじりじりと追い詰められつつある気がしているが、同じ問題意識を君が共有しているという、その事実に力を見出したい。高校時代からずっと、自転車に乗って君と多くの時間を無益に過ごしてきた気がするが、それら沢山の記憶はすべて一つの力に集束していくのかもしれない。

ランダムな出会い

いつも電話してる友達から、「今日むりです」と言われたので、アップルミュージックのラジオステーションをタップしまくって、ランダムに再生される曲を片っ端から聞いていくことにした。明日の午前に前期試験の成績が発表されます。村上龍が言っていたが、昔は買う前にレコードを試聴できて、ジャケットやなんかをきっかけとする偶然の出会いがあったらしい。現代の、とりわけサブスクリプションサービスでは、すでに目的の曲を知っている状態で検索していくのが普通なので、そういう偶然の出会いは減ってきていると。概ねそうなんだろうなと思う。

で、今までランダムに曲を提案してくれる機能があるとは知らなかったのだが、jpopオルタナティブのラジオステーションで、触ると自動で色々と流してくれるものが見つかったので、チョコチョコ聞いていた。今夜はうまく寝つく自信が無いし、近頃同じ曲ばかり聞きすぎて食傷気味になってきているので、気がすむまで聞いて見ることにした。

 

試験が終わって1週間後の8/8から昨日までの3週間、自動車学校に通っていた。無事卒業できたのだが、スピードプランはそれなりにきつかった。この2ヶ月間、久しぶりにタスクに追われたし、最後に試験というものが待っていて、努力の多寡が自分の生活に直接影響する類の機会だったので、正直言って消耗した。まだ気持ちとしては夏休みに入っていなくて、明後日の本免学科試験に受かって初めて夏休み突入した気がするんだと思う。

腰を落ち着けられていないので、小説の構想は立っていないし、頭の中に言葉が浮かんでこない。この記事の文章も、音楽を聴きつつというのもあるんだろうが、割と苦渋しながら書いている。なんとかと閑暇から芸術は生まれる、という三島由紀夫の言葉は正しいと思う。学問とは頭の使い方が違うので、創作はまとまった時間が無いと滑り出して行かない。はやく学科試験が終わって欲しい...。

 

東京に戻ることにした。今度は友達との予定も組んだので撤回などはないはず。

 

6月までの熱意などはどこかに行ってしまった。現実生活が忙しくて、それを捌くことに精一杯のままでしばらく生活している。現実生活に圧倒されて、色々なものが疲労の霧のうちに飲み込まれて曖昧なまま老いていく、そんな怖ろしい人生をすでに予行練習しているというわけだ。今は僕の中のなにかが低徊していて、何かについて熱っぽく言葉を連ねる気力も湧いてこない。極端な喜怒哀楽もなく、植物みたいな生活をしている。コロナで友達と全然会えていなかったり、やることが多かったり、色々要因はあるんだろうが、とにかく考えが内側に向いてゆかない。仕方ないことなんだと思う。ぼんやりした憤りの感覚だけが薄っすら脳みそのどこかを浮遊している。俺はこの僻地にいて2ヶ月も机に向かえないとはゆめゆめ考えていなかった。ゆめゆめ、考えていなかった。

二つの焦点

5月も半ばを過ぎて、21歳の誕生日を迎えようとしている今、数ヶ月前から相変わらず実家の柔らかく少し猫の引っ掻き跡がついたソファに沈んで、この文章を打っている。

第1稿の部分的なリライトや推敲が4/20にひとまず終わったものの、自分の中の不完全燃焼な感を拭いきれず、かといって何をどうするという方策がまるで立たないまま、中途半端に二作品目の構想を立てたり、文章のスピード感を増加させる目論見で後先なく携帯に打ち直してみたりするなど、迷走を繰り返してこのひと月を過ごしてきた。

ネットで知り合ったある人に、恥をしのんで小説を読んでもらった。何かが変わるだろう、それが悪い方向へかいい方向へかはともかくとして、少なくとも現状に変化を及ぼすことはできるだろうと思って。その人は、全体として僕の書いたものにみずみずしい感動を表明してくれたし、文学が好きで自分も何度か挑戦したが筆を折ったという立場から、最大限の賛辞を送ってくれた。しかし僕自身の中の不安げな気性が満足せず、詳しく問いただし突き詰めていくと、「”いい意味で“童貞くさい、それが愛おしいし、今のあなたの年代でしか書けないだろうと思う」「二重生活の孤独、宙ぶらりんの身分というテーマは『ブルー』にも勝る、それは私たちと地続きで逼迫したものであり、それゆえ『ブルー』より陰鬱として泥臭い印象を備えるかもしれないが、等身大の私たちに響きうる」「文章は“無個性”」「目を見張るディテールがあり、それらは改稿の際も是非削除しないでほしい」などという、鋭い刃のような言葉を貰った。白状すれば、僕は彼女の言葉からある程度の自信と、模索の可能性を与えられたし、同時に傷つけられた。すでに明らかだろうが、僕のような人間にとって「無個性」という評価は最も忌まわしい。それが今作でこだわってきたカメラアイの文体(主人公の自我を極力登場させず、外界の動きとそれによる五感の感応だけを記述して、作品を映像的・感覚的に仕立て上げようとするもの)に関するものだったから、虚脱感はことさら強く、数日経った今でもくよくよ悩んでいる。

ただ、書く前も書いている最中もそして書き終えた後も、常に感じていたのはその理想とするカメラアイ文体と僕が製作を迫られた人生経験の素材の、恐ろしいほどのミスマッチなのだった。

ここでは説明(というか個人的な考えの表明)を省くが、カメラアイ文体とは「3人称的1人称」と言えるはずで、神の視点から外界を平等に描写しながらも1人称の人間味、あたたかさ、認知の歪み、のようなものを喪失しないで済む手法だと考えている。代わりに主人公による告白の機会は大きく制限され、主人公の側から能動的に起こすアクションというものに適合しない。まあ『ブルー』的と言ったらそれまでなのだが、この文体のもつ静けさと少しの暖かさというのは、主人公が神のようにじっとして変化しないでいられる作品にのみ許されるのだと思う。だから村上龍は二作目の『海の向こうで〜』においては海のこちら側(僕とフィニーがただくつろいでいるほう)では一人称を使うし、あちら側(たくさんの人が主体的に動き、他人と会い、何かしらを考えて、抱えている背景の説明=人物の思弁、も必要な方)では3人称が使われている、これは彼の文体の特徴を端的に示しているのだと思うし、彼自身恐らく人称を色々試してみて「あちら側」で既成の文体を用いることの難しさを痛感したのではないだろうか。(コインロッカーベイビーズでは人称を色々試した末に、3人称かつ嬰児の母がロッカーに赤子を捨てる場面から書き始めることでようやく物語が辷りだしたらしい)

そして、僕の小説はやはり「あちら側」の1エピソードと次元を同じくする、主体的な動きと変化、それを説明する思弁が必要とされる物語だった。 主人公がじっとして神のように辺りを見ていたら、多分狭いアパートの一室をほとんど出ることなく、出たとして大学の図書館へ行くか定食屋で飯を食うかするだけで、気づいたら二次試験を迎えてしまう、そういう話なのだ。それを無理やり『ブルー』の文体で書いていこうとしたから矛盾が生じた。矛盾を隠すには(相対的には)不必要な記述で紙面を埋め尽くすしかなかった。僕が書いても書いても憂鬱でいたのは、頭のどこかで最初からそのことに気づいていたからなのだろう。

と、ここまで文体に関する致命的な問題を話したところで、僕に残された道はシンプルに2つだと思う。

①ブルーの文体で押し通す(もしかしたら現作品はこれで終わりにして次へ進むか)

②より素材に適した文体を探し、一からリライトする

 

正直、①を追求していくのはもはや不毛だろうと感じる。①を追求するということは1/28から絶えず行ってきたことだし、それで書いている間、僕は正直辛かった。“無個性”という評価の話に一瞬戻るが、僕はこの文体を選択し外界を娼婦みたいに次から次へと絡め取って、いわば無責任な描写を量産していったせいでそう見えたのでは無いかと考えている(そうであってほしい) 書いていて込み上げてくるものがあったときにも「これが表現ということなんだ」と食いしばってサラリと受け流したりした。彼女が「主人公はとてもとても善人に感じる、コミュニケーションに難を抱えて現実に関わろうとしない、でもすごく優しくて仮に話の途中で誰かを殺してやりたいとか思ったとしても、きっとそうしないだろうな、と私に思わせるくらい」という感想は決して偶然では無いと思う。その点で自分を抑えに抑えたあの文体が一応の功を成したとも言えるし、バイオレンスが無ければあの文体はひたすら甘いだけの童貞くさいヤワな文体だということも(つまり僕の文体選択が甘かったということが)明らかになったはずだ。

すべての根は、いま、一つに繋がっているという風に僕には感じられる。まあ、文体を変えるということはそれだけラディカルことなので、「根」も「根」、うまいことを言ったというつもりは全くないけれど。僕は僕の体験をこういう形で終わらせたくないし、この作品に心から別れを告げないことには先へ進める気がしないので、たぶん②の道を行くのだろうと思います。5ヶ月を切ったということで焦る気持ちもありますが、これまで積み重ねてきたディテールやイメージはリライト後に転用できるはずなので、何かを書くことになったとて初稿ほどの時間と労力は要さないだろうと思ってます。

 

それからテーマについての問題。正直言って、僕は自分の体験の独自性に酔っている部分があって、1-1.5稿では、もちろん抑えたつもりだけども、話の終わり方で決定的にそういう自意識が漏れ出てしまっていた。「結末はちょっと甘すぎるかな、スイートすぎるかなって思う。主人公はきっと救われるべきだけど、それは麻里奈の、それも彼女の持つ弱い部分によってではない、麻里奈に救われるんだとしても彼女の人生を楽しくする性格によってであるべきだし、私個人の思いとしては、主人公にはネットの居場所ではなく現実を見据え直して、自分の力で立ち上がって欲しい」

たった数日前に、退屈に任せてかけてみた電話で彼女と繋がったことは不思議なほど僥倖に感じられるのだが、その鋭い指摘にひそむ力のおかげで、体験に脚を取られていた僕の思考の動きも自由になった気がする。ネットで知り合った人びとに対する思いの本質を突き詰めていくと、ボタン一つで自由に関係を切ることも継続することもできるという不安定さと刹那性はいつも背後に感じているものであって、あの頃麻里奈のモデルと勉強していた頃も、突然彼女がいなくなるのではないか、受験が終わったら自分は捨てられるのではないか、そういう恐怖は間違いなくあって、顔を合わせた後でさえ、地に脚をつけていない僕らの関係に対する一抹の不安はぬぐいきれず、現実を生き抜いた僕自身は、やはり麻里奈によってではなく自分の向日性やプライド、時間の経過などによって3/10から立ち上がったというのが正しいのだと、思った。僕は、その事実を、書く前に何度か考えたこともあったが、麻里奈との蜜月を描きたくて無視してしまった。彼女は僕の自惚れや逃避傾向を厳しく読み取って伝えてくれた。だから僕は、第2稿を書くにあたり、最終的に麻里奈とは訣別するというプロットを確定させました。そうなるとまたしちめんどくさい調整が必要になってきて、キリがないなあ...ということにもなってしまうのですが、「私たちと地続きの孤独」という言い方は舞い上がるほど嬉しかったし、あの身悶えするような宙ぶらりんの寂しさを抱いている人たちに少しでも救済の片鱗を覗かせられるよう、努力します。

 

アスファルトが水に濡れて暗い藍色に染まっている。経年の劣化で生まれたひびやへこみに水が溜まり、今は静かになった爽やかな空を映している。アスファルトの色より、きらきらと揺れる水面の空の青がはっきり明るい。看板がそっぽを向いた薬王堂の背後から、自転車を漕ぐ老人が曲がりくねったその道をよろよろ僕の方にやって来て、効率の悪いカーブを描いてどんどん大きくなる。彼の背後にまだ広がる、驟雨を降らせる暗く厚い雲が、ぽこぽこと穴を空けられそこから日差しが降り注ぎ、階段のように見える。徐々に大きくなる白髪の老人の憂鬱そうな、しかし苦痛に鈍感そうな弛緩した顔と、美しい自然の重なりとを同時に眺めて、僕はなにがしか宗教的な気分になっていた。
遠く離れた街のことを考えざるを得なかった。周囲を見渡しても山一つ無くて、むしろ視線を遮る無骨な高層ビルばかりが乱立していて、いつも曇り空で、風が温くて、様々な音が響きついぞ沈黙が訪れない、あの孤独な街のことを考えざるを得なかった。ここからあの街まで、数字にして600km、新幹線の駅は12、7つの県、そして2秒ほどの時差がある。仮に原爆が国家の中枢を狙って落とされたとしたら、彼らは爆発の光に気づく前に灰燼となって消滅してしまうけど、僕は一瞬だけその死の光の美しさを感じ取ることができる。そのくらいの懸隔が、この町とあの街の間に横たわっている。

 

 

岩手と東京の厳密な時差など知らないけど、勢いで書いたら良い書き出しになったなと思って、紹介したくなりました。 ここまで深刻ではないけど、実家にいて外を眺める時これに近い気分にはなります。

 

 

 

生活についての近況

友達が明日地元を発ちます。昨日は彼と遊んできました。3月末に、東京へ帰りますというような記事を上げていますが、新幹線に乗る1時間前に「1日40人感染」のニュースが出て、都知事の緊急会見まで開かれたので、家族の説得もあって地元に残ることにしました。

東京に進学した人が少ない代だったのもあり、周りで地元に残っている人は聞きません。もしいたら是非連絡下さい、遊びましょう。

大学は5/11からの新学期となった上、前期はオンライン授業になると決定されました。東京の動向次第ですが前期のうちにあっちへ戻る可能性は多くないでしょう。華の2年前期が...泣

大学の人たちと会って駄弁りたいとか、電気切られた後の冷蔵庫“終わったな”とか、オンライン授業捗らなさそうだな、とか思うところは色々ありますが、みんな等しく同じ状況にあるのだし何をどう言ったって変わらないのだから自分が出来ることを、云々。

 

執筆に集中できるのはありがたい。この機会をブースターにして更に発展させていきたい。でもこんだけ潤沢な時間が与えられると怖い。時間に比して進捗が産めなかったときに「俺は何をしていたんだ」と揺り戻しが来るのが怖い。

あと前の記事でも書きましたが、疲れた。精神状態良くないです。休養取りつつ頑張ります。

小説についての近況

できたこと

・セリフで誤魔化し過ぎていたいくつかの場面に動作や詳細な細部を加え、「力が入ってる部分とそうでない部分の差」を減らすことができた、また、そうした改稿の理想的な進め方を体感することができた

・足りなかった前半部の現実的な不幸を加えるメドが立ち、着手して、ある程度進んだ

・不自由な表現、リズムが悪い部分の改善が進んだ

 

したいがやれてないこと

・明確な本筋が存在しない状態を脱すること←!

・キャラクターに差異を与えること

 

総括すると、推敲というものが思った以上に大変な作業であると、ひりひり感じさせられました。平野啓一郎が、「デザインとエンジニアリングを一人二役で行う結果生じる矛盾に、衝突するのが推敲段階だ」といっていますが、正しくそうだと思います。デザインというのはおそらく、こういう造形のキャラ、こういう展開、こういう感情、こういうセリフ、などがあったらいいなあという、美的感覚から始まる、創作の作業でしょう。得てして作りたてのものというのは不完全で、角が立ち過ぎて、いくつもの要素を連携させて作っていく小説という媒体では、それぞれのパーツがうまく調和して機能するよう角を削らなければいけません。場合によっては、このパーツはどうも嵌らないなということになれば、泣く泣く削除という帰結すらあるでしょう。この、「あるパーツによって自分の一番伝えたいことが伝わるかどうか、その役に立つかどうか」を精査するのがエンジニアリングだとすれば、推敲がちょうどデザインしたものをエンジニアリングする段階に当たるのだと思います。

そして、僕はその矛盾にドップリ足を取られているわけです...。

 

さて、この閉塞感、うまくいかなくてどうも辛い気分が、何によってもたらされるのかと言うと、たぶん小説に明確な流れが存在してないことなのだと思います。流れが存在せず、場面たちがそれぞれ自分のやりたいことを主張して意図が拡散してしまっている。なので場面を加えるとか文章を修正するとかいった小手先の修正を加えても、主人公が1行目からその場面までで何かを経ているという感覚が持ちにくく、読んでいて作品に没入することができないため、推敲中何度も読み返すわけですが、「ああ、こりゃちょっと...」となってしまう。

しかし、なにも僕が場面1で「カレーが好き」と言わせているのに場面6で「カレーは嫌い」と言わせているような、致命的な意味での拡散をさせてしまってるわけではありません。もっと言えば、ある場面でカレーを求めながら、別な場面でハヤシライスを求めてしまっているわけでもないです。構成メモを立ててなかったらあり得たかもしれないですが、1週間引きこもってメモを立てていたので、それほど酷いわけではないんです。この例に則って厳密に言おうとするなら、ある場面で「切っただけの生にんじん」「洗っただけのじゃがいも」「稲」が好きだと言っておいて、最後の方で急に「カレー」へ飛んでいくというような、強引な“飛び‘がある感じです。まあ書いてた頃の僕には「星型に切った人参」「食べやすい一口大のじゃがいも」「炊きたての新米」というつもりで書いてたんですが(そう思ってなきゃやってられない)、全体に当てはめてみるとどうも生に近かった、もっと洗練させられたなあ、という感じです。

また、あんまり例を引きずりすぎると良くないですけど、例えば僕がにんじんと玉ねぎとじゃがいもと豚肉の入った中辛のカレーを理想にしてるとしましょう。今ある第1.5稿には、どうもにんじんとじゃがいもと玉ねぎの一部を調理する過程だけ見せ(まあ皮剥くとかどんな切り方するとか)、肉には全く触れず、クライマックスになって手品のようにボン‼️と理想的なカレーを持ってきています。調理の行程のうち、最後の方は、流し気味に「はいやっといてー」という感じで進んでしまっているんです。

そろそろ分かりにくいですね、すみません。

とにかく僕は、なんとかカレーらしきものを作ろうとして、用意した場面のどれにもそこへ近づこうという傾向を与えられている。けれどカレーを完成させるためにはどの食材も調理が足りていない。結果それぞれの食材の取り扱いを個別に見ていくと(読者が場面を一つ一つ読み進めていくことを指しています)、いまいち何を作ろうとしているのか判然とせず、判然としないまま終わりに近づいて急にカレーが提示される、そういう状態に僕の作品はなっています。(伝わってほしい...!)

 

それで、自分を奮い立たせるためにも言いたいのは、今自分が用意している場面の中に推敲のヒントがあるということです。既にそこにある傾向、というものを大切にして、より洗練させる方に頭を使っていこうと思っています。時にはお蔵入りにするアイデアや場面もあるとは思いますが、第1稿を書いている間頭の中にあった理想形、完全なる調和に肉薄するにはどんな要素が「足りていないのか」を考えていきたいです。それは0からの創造とは確実に異なる作業であり、完成させるためにはそれが必要なのだと思います。

 

さっきシャワーを浴びている時に、実を言うと、自分はこういうのを書きたかったんだなあというものが一つ見つかりました。それは簡単に言ってしまえば「あなたがいないこの世界の生きづらさ」というものです。僕が現実的な不幸を求め(現実的な不幸があるからには非現実≒精神的な不幸が存在する。それは沢山散りばめました)、最終的に主人公に自殺まで試みさせるのは、消費されるセックスの問題や都市生活の孤独、資本主義社会における画一化された人生、などという要素を一手に引き受け衰弱した主人公が、生きるよすがとして、崇めるほどにまで肥大した感情の対象である現実世界の女性から、あっさり拒絶されることで、自我の行き場を失い死を選ぶという流れを書きたいからなのでした。流れが見えました。 けれどこの流れを適用するにあたり、①手放したくない一人の女性の設定や扱いを変えなければならず不本意であること、②僕自身が上記3つの問題について解決の糸口を掴めていないのに、作品を完成させることが出来るのか?という不安

があります。力の入れどころ、なのだと思います。

 

道は長いです。あるいは全体の30-40%ほどを変えなければならないかもしれません。ここ数ヶ月ひたすらこの作品だけに力を注いできて、正直疲れてしまいました。時間があるので進捗は生めますが、これから先どのくらい直していけばいいのか全く未知数で、心細い。何かを作るのは元来好きだし、作文とお絵かきは特に好きでしたが、気持ちをバーーーッとぶつけられるから楽しいのであって、推敲のように理想と現実の狭間で苦しみながらパズルをはめるように別な場面との兼ね合いを考えつつ文章を変えていくのは辛いです。その分いい文章が出来ると嬉しくて、何かあるたびにそこを見返してしまったりするんですが、今は作るという作業に疲れてしまいました。