だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

東京に戻るんだけど

不穏ですね。ロックダウンとか新規感染人数とか、大学の授業開始は5/11まで延期になりました。

青森で一人出ましたが岩手ではまだ0です。気楽に走れます。多分まだこっちにいた方が良いのだろうな、と思う。

でも、東京にたくさん会いたい人がいて、そろそろこっちで燻ってることに耐えられなくなってきました。帰省していたら進むものも進まなくて、小説はそれは多少書けるけど、家族がいるので緊張感が持てません。今色々構成立て直したりアイデア追加してる途中で、字数として進捗が現れないこともあると思うのですが、そろそろ孤独になりたいな、とも思ってきています。

でも東京はこれから増える気配がビンビン漂っていますから、電車に乗るのも危険、スーパーの買い出しも不安、現実的に考えて今東京に戻るのは飛んで火に入るうんたらだと分かっています。

東京に戻りたいのは俺の衝動、その他のあらゆる事情は岩手に留まってろと命じてくる。迷って、何か決定打が必要だなと感じていた矢先、「何かで迷っている時、例えばコイントスをしたとして、コインが宙にある瞬間お前がなれと念ずる選択肢がお前の本心だ」という鋭い指摘があり、実際にしたわけでは無いですし自分では「戻りたい」と思っているわけですから当然なのですが、東京に戻ろうと決心しました。まあ、それが昨日の話で、今日また新規感染者が多数出ましたし、授業は延期、オリンも多分延期となって、状況は悪化しました。元々精神論で決めたことなので、現実がどうなろうが決心を揺らがせるべきでは無いと考えていたのですが、外出禁止、活動自粛、エトセトラエトセトラが起これば東京に戻る目的自体が叶わないことになってしまう。ただ部屋で一人まずい飯と寒いシャワーを浴びることになってしまう。可能性を考慮し始めればキリが無いし、そもそもそういう現実的事情を度外視して、自分の気持ちはどうだというところだけを見てきたのだから、そういう事情を今更持ち出すのは筋ではない、そう分かっているのですが踏み出す勇気が持てない。かといってここにいては何も進まなくて、逆に「帰ることで起こり得た良いこと」ばかりを考えはじめ多分精神が汚染されるだろうと思います。まあ書きながらも迷っているのですが、早晩帰るのだし、たとえ今回帰らなくても、また日曜日(帰る日第二候補)に同じことで悩むのだろうから、もう仕方ない、お前は若いんだから、ともかく自分のしたいことをするんだ、と半ばヤケで自分に言い聞かせています。

ということで、明日東京に戻ります。死にたくないですね。みなさんも死なないで下さいね。

小説の方は、正直特筆することは無くて、先週見えた道筋をとりあえず進んでいます。先は長く、自分の理想が高いだけ現状とのギャップに辛くなりますが、この春会った沢山の人達から力を得て、戦い抜くぞという思いを新たにできました。戦い抜きます。春休みが伸びたことは、なんらかの天啓だと感じています。

アイデアが浮かんだ

今拡散した内容を綺麗にまとめるアイデアが浮かんだ(というか根底にあったものに気づき引きずり出したという方が適切だけど)ので、興奮しており、冷ますためにこうしてポチポチ打っています。内容面でパンチがない、叙情ばかりで説得力がない、主人公に降りかかる現実的な不幸が少なくて自己完結で苦しんでいる節がある、ということが第一稿の最も大きく致命的な欠陥だと考えていて、しかし全く考えが無いというのではなく薄い膜を一枚挟んでうまく言葉にできない心情の渦巻き(そしてそれを表現する具体的場面の候補)があるのを書いてる時から感じていた。少しその膜を破ることができた手応えがあり、これだけでも書き直しをしようと意気込んで良かったと思える。同時に、「また書くんか...」といううれしい悲鳴のような、不安と期待が入り混じる気持ちが湧いてきて、こういう状況にあるときの自分はとてもいきいきとするし自分の人生を自分で生きていると確信できて安心する。コアのイメージは浮かびつつあるので、これから場面を試しに用意して構成立てて細部を詰めて、いくらか枚数が増えるのだと思う。

それからうまく書けていなかったもののリズムが好きで書き直したくなかった終結部を書き直し、いくらか重層的になったと思う。(その部分の書き直しが、全体の内容を峻別して関係づけをしていくために重要だった)

独りよがりな文章で申し訳ないが、確実に第一稿より質のいいものが出来ると断言します。(こういうこと書くと萎えてモチベ下がるからダメなんだけども..)

さっきまで推敲とか難しすぎやろ...と思ってたけど本当に良かった。頑張ります。

書き直し作業に入ります

第1稿を終えてから今日で1週間になります。高校の友人と会って楽しいひとときを過ごすことができ、心身とも休まった(?)ので、今日から、第1稿を修正、書き直しする作業に入りたいと思います。

その前に、少し僕の執筆状況について話したいと思います。昨年9月の終わりに100枚少しの中編を書いて、そこで何か得た感覚があり、10、11月と立て続けに、内容の異なる100枚程度の中編をさらに2つ書きました。しかしそのどれもが小説として大きな欠陥があることに気づき、自分の方法に問題点があることを反省して、後期期末試験が明けた1月末から改めて書きはじめ、それが繰り返し進捗を報告してきた作品ということになります。何が言いたいのかと言うと、小説を一つ完成させるということが、あまりにも未知な作業すぎてうまくは立ち回れて来られなかったということです。数ヶ月の紆余曲折があってやっと納得できる第1稿に先日たどり着いた感じです。

これから始まる第1稿以後の作業においても同じことが言えて、とりあえず調べてみて作家たちが実は誰しもしている推敲というものの力、どれだけ作品を改良することができるかの幅について今僕は信じているのですが、その幅を僕が大きく捉えすぎているのかもしれないし、逆にこれでも軽視しているのかもしれません。そして推敲、書き直しというものが何を基軸に、何に向けて、どれほどの量と深さで行なっていけばいいのかも、聞きかじって漠然とイメージがある程度に過ぎません。正直言って分からないことだらけです。

ですから、ここから先また迷走して、辛い時期があるのだろうと予感しています。

このような自虐めいた話を書いても仕方ないかもしれないですが、僕が熱っぽく「書き直し、書き直し」と言うことの裏には実はそれほど明確なイメージも伴っていなくて、ただ期待しているだけなのだと現状をここで明らかにしておきたいと思います。

 

さて、新学期の始まる4/20ごろまでとりあえず一ヶ月間着手してみようという感じですが、修正あるいは追加点を今思い当たる分は列挙しておこうと思います。

 

文体面

・情景描写の明確化、メリハリ

・比喩の追加、洗練

・動作の追加(特に会話だけでゴリ押してしまった部分)

・不要な動作、視点移動、独白の削除

・会話の洗練

・細部、些事の叙述を高密化

・文のリズム調節

 

 

内容面

・現実的な不幸の追加

・不合理な行動を変更あるいは変更せず動機を解説

・結論/焦点を一部に絞る

・サイドストーリー、バックグラウンドを確定させ、より生かす

・詩情の暴走を精査(←ガチ重要)

 

くらいでしょうか...ちょっと意識高い系のセルフマネジメント・プログラムみたいなエッセンスを感じますが、どの場面をどう直す、というプラクティカルなヴィジョンはしっかりホールドしているので大丈夫です。むしろ見える化させることで思考を涼しくしステイデイな状態であくまでストイックにコミットしていきたいと思ってます。

 

いずれ東京に戻りますが、飯や洗濯や掃除の心配もせず温かい風呂に入れる実家暮らしでは結果的に能率上がってました。代わりに一人でいられる時間少ないけど、寂しさでメンタルやられることもないし、誘惑もないしで帰ってきて良かったなとまあ感じています。戻ったら命を繋ぐためにめんどくさい雑事を片付けなければいけないし、部屋は無音で一人でいると気が狂いそうになるし...ってこれはこっちでの生活にまた慣れちゃったんだなあ...

コロナも怖いからいつ戻るかは考えなければいけませんね。まあとりあえず目の前の推敲を遂行します。また進捗報告しますね。かしこ。

 

第1稿完成しました

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本文は2/11くらいから書き始めました。一ヶ月弱でしょうか。打つ作業が終わってませんが61000字くらいかなと思います。

 

当たり前ですが第1稿なので出来は良くないです。挙げればキリが無いですが、はやく直したくてたまりません。これから長い長い書き直し作業に入りますが、しかし0を1にすることに比べ、1を2、3、5、10にしていくことはそう難しくないと思います。楽しい作業になると期待しています。まずは精神を休め、時間を置くことで一度読み手の目線を獲得し、まっさらな気持ちで推敲に入っていこうと思います。

 

 

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うちおわりました..

 

進捗

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さっき作中で2番目に重要な部分が終わりました。ちょっと気分アガッてます。

 

9時に成績発表があって緊張してるんですが、それがいいように働いてます。4時くらいまで頑張ったら多分疲れて眠れると思う。

上海蟹食べたい、あなたと食べたいよ

授業で提出したレポート。5000文字くらいです。面白くないかも。

 

作品世界が現実を上回る例について-ライ麦畑と天人五衰の共通点- (文学レポート)

1.輻輳する空間の定義
2.ライ麦畑の結末について
3.天人五衰の結末について
4.二人の作家のその後
5.輻輳について


1.まず授業で何度も取り上げられた「輻輳する空間」について、自分なりの定義を確立する。そもそも輻輳という言葉の定義は、実用日本語表現辞典によると、
輻輳(ふくそう)とは、いろんなものが同じ箇所に集中して混雑する状況のことです。とりわけ、電気通信の分野において、電話やデータ通信といった通信が同時に集中してしまい(通常通りに処理できなくなり)通信困難に陥る状況を指す用語として用いられます。
多少おおざっぱな理解としては、通信分野における輻輳は「通信回線がパンクした状態」と捉えてよいかもしれません。たとえば、携帯電話やスマートフォンが世間一般に浸透してしばらくの間は、元日の年越しのタイミングで日本国民が一斉に「あけおめ」メール・SMSを送信したことで、正常な通信が不能になり、通信が遅延したり通信システムがダウンしたりといった事態が発生することがありました。こうした事例は輻輳の典型例といえます。 」
と説明されている。また、
「医学の分野では、眼球を両目ともに内側に向けることを「輻輳」といいます。いわゆる「寄り目」を指す学術的な呼称です。「寄り目ができない」ことを「輻輳困難」といいます。」という説明もあり、感覚的な語意の理解にはこれが最も明快に思われる。
つまり、二つ以上のものが同一の点、場所に重なり合うことを指し、”もの“は一般的には重ならないとみなされているものに使われると考えて良い。たしかに空間とは、動かしたり歪ませたりすることは出来ない。増して同一の場所に重なり合うことなど起こり得ない。では、授業で紹介された様々な作品で成立している空間の輻輳とはどんな事態なのか。
村上春樹の「象の消滅」や「パン屋再襲撃」、ルイスキャロルの「不思議の国のアリス」、多和田葉子の「溶ける街透ける路」の引用箇所に特に顕著に思われるが、空間の輻輳とは新しい視点の獲得ではないだろうか。既存のスタティックで安定した現実へのまなざしとは違う、現世の価値観や物理法則に捉われない第二の視座、その視座から観察した世界が輻輳するもう一つの空間だと考える。この説明によって明らかなように、もう一つの空間には現実の法則や前提が無いものとされ、ある場合には違和感や不安感、欠如感を伴いもするし、逆に現実にはあり得ない精緻な完成が現前することもある。よって空間の輻輳とは、
①もう一つの視座があること
②その視座から既存の空間を解釈し直すことで新しい何かが生じていること
と定義付けたい。
以上を踏まえ、本レポートでは『ライ麦畑で捕まえて』と『天人五衰』における空間の輻輳の共通点を考える。

2.『ライ麦畑で捕まえて』の結末について
この作品は16歳のホールデン少年が高校を放校になる寸前の一夜を描いたもので、高校から自宅へと帰る路上で沢山の人と出会い、価値観の相違やコミュニケーションの障害に葛藤する物語である。幼馴染で好きだった女性が友人と性交したり、何にも無頓着でみすぼらしく粗暴だが、心根は優しい友人への思いを述懐したり、生徒の実情を知らない母親や自分を相手にしてくれないパーティの女の子たち、兄の旧友であまり仲の良くない、自分を軽蔑する男などと会って話し、世俗の価値観の歪みや汚さを少年の純粋な精神が次々捉え、衝突していく。そんなホールデン少年にとって、妹のフィービーは何にも染まらない純粋な少女であり、夭折した頭の良い弟と共に彼がしばしば想起し憧憬する存在だった。やがて実家にたどり着き、両親に隠れて妹と再会し、翌日の午前の街を、学校を休んだフィービーと共に歩く。そして街のメリーゴーランドを訪れ、フィービーがそれに乗っている間、ホールデン少年は疲れ果てた身体をベンチにもたれさせ休んでいると、雨が降ってきた。激しい雨でメリーゴーランドを利用していた他の親子連れはメリーゴーランドの屋根の下へ移動したが、フィービーは乗り続けてずっとくるくる、くるくる回っていて、少年もベンチに座り続ける。少年は回転し続けるフィービーを見ていてとても幸せな気分になるのだった。
本文は以下のようである。
「それから彼女はぐるっと回ってまた自分の馬のところへ行き、それに乗ると、僕に向かって手を振った。僕もそれに答えて手を振ったのさ。
雨が急に馬鹿みたいに降り出した。全く、バケツをひっくり返したように、という降り方だったねえ。子供の親たちは、母親から誰からみんな、ずぶぬれになっては大変というんで、回転木馬の下に駆け込んだけど、僕はそれからも長いことベンチに頑張っていた。すっかりずぶ濡れになったな。特に首すじとズボンがひどかった。ハンチングのおかげで、たしかに、ある意味では、とても助かったけど、でもとにかく、ずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ながら、突然、とても幸福な気分になったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回り続けてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せてやりたかったよ。」
細部の議論を省略しても、ホールデン少年がフィービーや弟に対して崇拝にも似た愛情を注いでいることは間違いなく、それは自分を理解してくれない世俗との関わりに対する反動形成と断定して問題は無い。世俗との関わりが当該作品の主要な部分だが、その中で彼は繰り返し失望させられながら一夜を過ごす。しかし同時に弟や妹、旅をする修道女などに対して深い哀れみと尊敬を持ち、失望の中でどうしてもそれだけは捨てられないとひりひり感じながら回転木馬へ至るのだ。
このような背景を踏まえれば、最終場面がどのような意味を持つのかが分かってくる。価値の倒錯である。最終場面において、それまで従属的地位に置かれ唾棄することを外界から要請され続けてきた純粋な弱者に対する哀れみが、一転して絶対の価値を持ち、終わらない回転に象徴されるあたたかな永遠性を孕んで少年の世界を包み込むのだ。だから彼は恍惚として、雨に打たれながら「とても幸福な気分」になるのである。
世俗が文字通り現実だとすれば、フィービーの回転という新たな視座から眺めた結末の世界とはサリンジャー自身の理想世界と言える。つまりこの作品の結末では、少年の目の前で空間が輻輳し、一時的に、もう一つの非現実な空間が勝ってしまうのである。

3.『天人五衰』の結末について
この作品は『豊饒の海』四部作の最終巻にあたる作品で、脇腹に3つのほくろを持って生まれ変わる夭折の行動者を、本多という記録者の目から追う作品である。行動者は、必ず青春の絶頂における死を迎え、生まれ変わって本多の前に現れる。幼馴染の松枝清顕、右翼の飯沼勲、タイの王女ジン・ジャン(月光姫)と、何度も生まれ変わっては夭折した末に、最終巻である『天人五衰』で、帝国信号通信所に勤める16歳の少年安永透として本多と出会う。本多は運命の呪縛を逃れるため、安永を夭折させまいとして養子として引き取り、英才教育を施して20の誕生日を待つ。行動から引き離そうと考えていた。が、その実透の思考は本多のそれと似ており、行動者のものとは違っていて、本当に転生者なのか疑念が残る。透は本多の遺産を狙って彼を虐待し、彼はストレスから悪癖だった覗きを再発させてしまう。見かねた本多の友人久松慶子が安永を呼び出して真実を暴露するシーンは授業で引用されている。転生者だと証明するために透は服毒するが、視力を失うのみで命は取り留める。そして世界で最も醜いが自分では最も美しいと信じている女性、絹江と懇意になる。絹江の知的障害は遺伝性のものであり、彼女の懐妊の気配を察知した本多は、自分の末裔が障害を伴って生まれることに歓喜を剥き出しにする。
すべてが終わりに近づいていく中で、本多は数十年の禁忌を解いて清顕の恋人だった聡子のいる月修寺を訪れる。転生の秘密を彼女に伝えることが、生涯で本多が夢に見続けてきたことだった。彼女と遂に再会し、満を持して清顕以降の転生者の話をしようとするが、意外にも聡子は、
「その松枝清顕さんという方はどういうお人やした?」
「私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
と言う。松枝清顕など知らないと言うのだ。そして彼女は続ける。
「けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?又、わたしとあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりとおっしゃれますか?」
確かに記憶にあると言う本多に対して、
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
記憶という前提さえも否定され、自分が今まで見てきたものは何だったのかと混乱する彼に、
「それも心々ですさかい」
と加える彼女は、明らかに解脱の立場から新しい視点を提供している。本多の主知的な世界理解に対して、空即是色色即是空の教義から全てを相対化する。
その後、本多は聡子に案内されて夏の庭に出る。物語はそこで終わる。
「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・」
この作品を完成させた直後、その日のうちに彼は自決した。最期を飾ることになる四部作で追求してきた輪廻転生というテーマを、聡子の言葉を借りて三島由紀夫は全否定している。たった1ページに満たない叙述によって。解脱の視点から見た空虚は現実の夏の庭にはあり得ないものだが、処女作の結末と45年の8月15日にも通底するかもしれない庭の静寂を本多ははっきりと感じ取って茫然自失である。
ここに空間の輻輳がある。正確には、聡子が清顕を覚えていないと発言した時点から輻輳が始まり、本多にとっての認識と聡子にとっての認識が交錯する。やがて知性に立脚した本多の世界認識が全く相対的なものでしかないと聡子に諭されて、小説の前提は覆され、空の観念に直面し、世界は一新されるのだ。これもまた作家の作った(抱えていた)世界が現実世界を呑み込む例と言える。

4.二人の作家のその後
サリンジャーは『ライ麦』が世界的なヒットになると、メディアに晒され、作品の語られない謎について多くの人々から追及を受けた。それが理由かどうかははっきりしないが、彼は65年に最後の作品を書いて以来、田舎に引っ越し自分の写真さえ掲載されることを嫌がった。2010年に死去するまで公に出版した作品は一つもない。
三島由紀夫天人五衰を完成させて割腹自殺を果たした。
作品世界の持つ純粋性を極度に高め、現実を上回らせるという大業を成した二人の作家が、揃ってそれを機に創作を絶っているという事態を、偶然と片付けるには困難なように思われる。

5.輻輳について
ライ麦』の結末部が、ホールデン少年の信じる理想世界を絶対なものとして現前させたのに対し、『天人五衰』は主題の全否定(作中で論理的に絶対でなければならないものを相対化)している、真逆の効果が生じているのは問題にはならない。それぞれの作家の内的衝動に呼応しているだけである。重要なのは、輻輳という非現実的手法が、時に作家の世界を激しく強調して象る機能を持つ点だ。

 

 

多くの失望と、わずかな、純粋な弱者に対する深い哀れみと尊敬が堆積した末に、回転木馬に乗ったフィービーという絶対の価値が現れる(ボツにした文章。せっかくなんで残しときます)