だが万馬券は当たらない

急死したとき遺族にこれを読んで俺の存在を感じて欲しくて書いてる

上海蟹食べたい、あなたと食べたいよ

授業で提出したレポート。5000文字くらいです。面白くないかも。

 

作品世界が現実を上回る例について-ライ麦畑と天人五衰の共通点- (文学レポート)

1.輻輳する空間の定義
2.ライ麦畑の結末について
3.天人五衰の結末について
4.二人の作家のその後
5.輻輳について


1.まず授業で何度も取り上げられた「輻輳する空間」について、自分なりの定義を確立する。そもそも輻輳という言葉の定義は、実用日本語表現辞典によると、
輻輳(ふくそう)とは、いろんなものが同じ箇所に集中して混雑する状況のことです。とりわけ、電気通信の分野において、電話やデータ通信といった通信が同時に集中してしまい(通常通りに処理できなくなり)通信困難に陥る状況を指す用語として用いられます。
多少おおざっぱな理解としては、通信分野における輻輳は「通信回線がパンクした状態」と捉えてよいかもしれません。たとえば、携帯電話やスマートフォンが世間一般に浸透してしばらくの間は、元日の年越しのタイミングで日本国民が一斉に「あけおめ」メール・SMSを送信したことで、正常な通信が不能になり、通信が遅延したり通信システムがダウンしたりといった事態が発生することがありました。こうした事例は輻輳の典型例といえます。 」
と説明されている。また、
「医学の分野では、眼球を両目ともに内側に向けることを「輻輳」といいます。いわゆる「寄り目」を指す学術的な呼称です。「寄り目ができない」ことを「輻輳困難」といいます。」という説明もあり、感覚的な語意の理解にはこれが最も明快に思われる。
つまり、二つ以上のものが同一の点、場所に重なり合うことを指し、”もの“は一般的には重ならないとみなされているものに使われると考えて良い。たしかに空間とは、動かしたり歪ませたりすることは出来ない。増して同一の場所に重なり合うことなど起こり得ない。では、授業で紹介された様々な作品で成立している空間の輻輳とはどんな事態なのか。
村上春樹の「象の消滅」や「パン屋再襲撃」、ルイスキャロルの「不思議の国のアリス」、多和田葉子の「溶ける街透ける路」の引用箇所に特に顕著に思われるが、空間の輻輳とは新しい視点の獲得ではないだろうか。既存のスタティックで安定した現実へのまなざしとは違う、現世の価値観や物理法則に捉われない第二の視座、その視座から観察した世界が輻輳するもう一つの空間だと考える。この説明によって明らかなように、もう一つの空間には現実の法則や前提が無いものとされ、ある場合には違和感や不安感、欠如感を伴いもするし、逆に現実にはあり得ない精緻な完成が現前することもある。よって空間の輻輳とは、
①もう一つの視座があること
②その視座から既存の空間を解釈し直すことで新しい何かが生じていること
と定義付けたい。
以上を踏まえ、本レポートでは『ライ麦畑で捕まえて』と『天人五衰』における空間の輻輳の共通点を考える。

2.『ライ麦畑で捕まえて』の結末について
この作品は16歳のホールデン少年が高校を放校になる寸前の一夜を描いたもので、高校から自宅へと帰る路上で沢山の人と出会い、価値観の相違やコミュニケーションの障害に葛藤する物語である。幼馴染で好きだった女性が友人と性交したり、何にも無頓着でみすぼらしく粗暴だが、心根は優しい友人への思いを述懐したり、生徒の実情を知らない母親や自分を相手にしてくれないパーティの女の子たち、兄の旧友であまり仲の良くない、自分を軽蔑する男などと会って話し、世俗の価値観の歪みや汚さを少年の純粋な精神が次々捉え、衝突していく。そんなホールデン少年にとって、妹のフィービーは何にも染まらない純粋な少女であり、夭折した頭の良い弟と共に彼がしばしば想起し憧憬する存在だった。やがて実家にたどり着き、両親に隠れて妹と再会し、翌日の午前の街を、学校を休んだフィービーと共に歩く。そして街のメリーゴーランドを訪れ、フィービーがそれに乗っている間、ホールデン少年は疲れ果てた身体をベンチにもたれさせ休んでいると、雨が降ってきた。激しい雨でメリーゴーランドを利用していた他の親子連れはメリーゴーランドの屋根の下へ移動したが、フィービーは乗り続けてずっとくるくる、くるくる回っていて、少年もベンチに座り続ける。少年は回転し続けるフィービーを見ていてとても幸せな気分になるのだった。
本文は以下のようである。
「それから彼女はぐるっと回ってまた自分の馬のところへ行き、それに乗ると、僕に向かって手を振った。僕もそれに答えて手を振ったのさ。
雨が急に馬鹿みたいに降り出した。全く、バケツをひっくり返したように、という降り方だったねえ。子供の親たちは、母親から誰からみんな、ずぶぬれになっては大変というんで、回転木馬の下に駆け込んだけど、僕はそれからも長いことベンチに頑張っていた。すっかりずぶ濡れになったな。特に首すじとズボンがひどかった。ハンチングのおかげで、たしかに、ある意味では、とても助かったけど、でもとにかく、ずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ながら、突然、とても幸福な気分になったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回り続けてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せてやりたかったよ。」
細部の議論を省略しても、ホールデン少年がフィービーや弟に対して崇拝にも似た愛情を注いでいることは間違いなく、それは自分を理解してくれない世俗との関わりに対する反動形成と断定して問題は無い。世俗との関わりが当該作品の主要な部分だが、その中で彼は繰り返し失望させられながら一夜を過ごす。しかし同時に弟や妹、旅をする修道女などに対して深い哀れみと尊敬を持ち、失望の中でどうしてもそれだけは捨てられないとひりひり感じながら回転木馬へ至るのだ。
このような背景を踏まえれば、最終場面がどのような意味を持つのかが分かってくる。価値の倒錯である。最終場面において、それまで従属的地位に置かれ唾棄することを外界から要請され続けてきた純粋な弱者に対する哀れみが、一転して絶対の価値を持ち、終わらない回転に象徴されるあたたかな永遠性を孕んで少年の世界を包み込むのだ。だから彼は恍惚として、雨に打たれながら「とても幸福な気分」になるのである。
世俗が文字通り現実だとすれば、フィービーの回転という新たな視座から眺めた結末の世界とはサリンジャー自身の理想世界と言える。つまりこの作品の結末では、少年の目の前で空間が輻輳し、一時的に、もう一つの非現実な空間が勝ってしまうのである。

3.『天人五衰』の結末について
この作品は『豊饒の海』四部作の最終巻にあたる作品で、脇腹に3つのほくろを持って生まれ変わる夭折の行動者を、本多という記録者の目から追う作品である。行動者は、必ず青春の絶頂における死を迎え、生まれ変わって本多の前に現れる。幼馴染の松枝清顕、右翼の飯沼勲、タイの王女ジン・ジャン(月光姫)と、何度も生まれ変わっては夭折した末に、最終巻である『天人五衰』で、帝国信号通信所に勤める16歳の少年安永透として本多と出会う。本多は運命の呪縛を逃れるため、安永を夭折させまいとして養子として引き取り、英才教育を施して20の誕生日を待つ。行動から引き離そうと考えていた。が、その実透の思考は本多のそれと似ており、行動者のものとは違っていて、本当に転生者なのか疑念が残る。透は本多の遺産を狙って彼を虐待し、彼はストレスから悪癖だった覗きを再発させてしまう。見かねた本多の友人久松慶子が安永を呼び出して真実を暴露するシーンは授業で引用されている。転生者だと証明するために透は服毒するが、視力を失うのみで命は取り留める。そして世界で最も醜いが自分では最も美しいと信じている女性、絹江と懇意になる。絹江の知的障害は遺伝性のものであり、彼女の懐妊の気配を察知した本多は、自分の末裔が障害を伴って生まれることに歓喜を剥き出しにする。
すべてが終わりに近づいていく中で、本多は数十年の禁忌を解いて清顕の恋人だった聡子のいる月修寺を訪れる。転生の秘密を彼女に伝えることが、生涯で本多が夢に見続けてきたことだった。彼女と遂に再会し、満を持して清顕以降の転生者の話をしようとするが、意外にも聡子は、
「その松枝清顕さんという方はどういうお人やした?」
「私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
と言う。松枝清顕など知らないと言うのだ。そして彼女は続ける。
「けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?又、わたしとあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりとおっしゃれますか?」
確かに記憶にあると言う本多に対して、
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
記憶という前提さえも否定され、自分が今まで見てきたものは何だったのかと混乱する彼に、
「それも心々ですさかい」
と加える彼女は、明らかに解脱の立場から新しい視点を提供している。本多の主知的な世界理解に対して、空即是色色即是空の教義から全てを相対化する。
その後、本多は聡子に案内されて夏の庭に出る。物語はそこで終わる。
「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・」
この作品を完成させた直後、その日のうちに彼は自決した。最期を飾ることになる四部作で追求してきた輪廻転生というテーマを、聡子の言葉を借りて三島由紀夫は全否定している。たった1ページに満たない叙述によって。解脱の視点から見た空虚は現実の夏の庭にはあり得ないものだが、処女作の結末と45年の8月15日にも通底するかもしれない庭の静寂を本多ははっきりと感じ取って茫然自失である。
ここに空間の輻輳がある。正確には、聡子が清顕を覚えていないと発言した時点から輻輳が始まり、本多にとっての認識と聡子にとっての認識が交錯する。やがて知性に立脚した本多の世界認識が全く相対的なものでしかないと聡子に諭されて、小説の前提は覆され、空の観念に直面し、世界は一新されるのだ。これもまた作家の作った(抱えていた)世界が現実世界を呑み込む例と言える。

4.二人の作家のその後
サリンジャーは『ライ麦』が世界的なヒットになると、メディアに晒され、作品の語られない謎について多くの人々から追及を受けた。それが理由かどうかははっきりしないが、彼は65年に最後の作品を書いて以来、田舎に引っ越し自分の写真さえ掲載されることを嫌がった。2010年に死去するまで公に出版した作品は一つもない。
三島由紀夫天人五衰を完成させて割腹自殺を果たした。
作品世界の持つ純粋性を極度に高め、現実を上回らせるという大業を成した二人の作家が、揃ってそれを機に創作を絶っているという事態を、偶然と片付けるには困難なように思われる。

5.輻輳について
ライ麦』の結末部が、ホールデン少年の信じる理想世界を絶対なものとして現前させたのに対し、『天人五衰』は主題の全否定(作中で論理的に絶対でなければならないものを相対化)している、真逆の効果が生じているのは問題にはならない。それぞれの作家の内的衝動に呼応しているだけである。重要なのは、輻輳という非現実的手法が、時に作家の世界を激しく強調して象る機能を持つ点だ。

 

 

多くの失望と、わずかな、純粋な弱者に対する深い哀れみと尊敬が堆積した末に、回転木馬に乗ったフィービーという絶対の価値が現れる(ボツにした文章。せっかくなんで残しときます)